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 「母の死」   八雲町  山田 久子

 交通事故、この言葉は、生まれてからすぐ耳にしていた言葉でした。私自身、運転手でありますが、交通事故だけは避けたいと思い、運転しているつもりです。

 平成9年12月27日、母は交通事故で死亡しました。死ぬ10分前まで生きて電話で話をしていた人間が、10分後には死ぬ。その事実を何がなんだか判らないまま、私はただ、葬儀をやることしか考えられませんでした。

 私は一回忌が終わった今でも、納得したくありません。それが本音です。

 私が、何よりも辛いのは、畳の上で死なせてあげられず、冷たいアスファルトの上で死なせてしまったことが、私にとっての負い目です。

 今まで、ひとりで大きくなった気持ちでいましたが、母が亡くなったことにより、その存在の大きさに痛感しました。

 こう言う思いを私ぱかりではなく、多くの方が、経験していることが辛いです。私は、声を大にして言いたいのは、「自分だけは」という気持ちを捨てて、事故はいつ起こるかわからないので、一人一人気をつけなけれぱならないと思います。また、命の尊さを今一度確認し、交通事故が少しでも減るように願い、私自身も前を向いて歩くことが、今一番母が望んでいることだと、信じています。


 「安心してネ、チーちやん」   札幌市  亀田 美紀子

   「チーちやん、お誕生日おめでとう」5月12日は、あなたの21回目のお誕生日ですね。あなたが生まれた日の幸せな気持ちで想い出しています。しかし、あなたがいなくなってしまってから今年で4回目の誕生日を迎えました。花を手向けることしか出来なくなってしまった今でも、生前と同じように、両親は花とケーキを用意し、妹のさやちゃんからも、あなた宛に、自分のお小遺いから用意したのでしょう、かわいいアレンジメントが届けられていました。いつもと変わらぬ、あなたを祝う想いが伝わって胸が痛くなります。

 朝、いってらっしゃいと送り出した娘がタ方には、冷たくなって帰宅することなど、誰が想像したでしょう。平成7年10月25日、当時高校2年生で、学校からの帰宅途中、前方不注意の車にひかれ、あなたは二度と元気な姿で帰って来ませんでした。
 あの日の悲しみを生涯忘れることは出来ません。冷たく冷たくなったあの白い口唇にお母さんが紅をさす。その姿が頭から離れないのです。

 「お母さん 二度と呼ばない 唇に
          母は紅さす ふるえる指で」

 あの日から4年、今もあの日を想い出すと、涙がポロポロこぼれて来ます。いろいろな行事がある度毎に、辛く悲しい時間を過ごしてきました。
 あなたの成人式の晴れ着、さやちゃんが替わりとなって着てみてくれました。一瞬、あなたが帰って来たような気がするほどに、似ているんですよね、姉妹は・・・・・。

 「妹に 重ね合わせし 晴れ姿
          今日は千尋の 成人の時」

 辛い想いを引きずりながらも懸命に生活しているあなたの家族の姿を伝えることが、そして、悲劇を繰り返さないでと訴える事が、叔母の私が、あなたにしてあげられるたった一つの事のような気がします。
 あなたが、亡くなった場所に今年も沢山の花が咲くでしょう。
 お父さんが、あなたの寂しくないようにと、その場所に花を植えているのです。

 「愛し子の 終の場所にと 花植える
          父の想いの コスモスゆれて」

 車社会となった昨今、全ての人々が、交通安全を心がけ、辛く悲しい想いをする人が一人でも減ってくれます事を祈ってやみません。どうか、どうか、悲劇を繰り返さないよう、突然、死に追いやられた人間の無念さ、その家族、周囲の人々の悲しみをハンドルを握る時、どうぞ、心の片隅に思い起こして下さい。

 チーちゃん、あなたの存在が大きすぎて、あなたの空白を埋めてやる事など出来ない自分たちではあるけれど、あなたの家族を微力ながら支え続けて行こうと思っています。安心してネ、チーちやん。


 「菜摘へ」   札幌市  横山 裕子

 莱摘、元気ですか? 今、何をしていますか? 寂しくないですか?

 ごめん、ママは精一杯元気にしているけれど、円香のいないところでこっそり泣いています。 菜摘、何をしてほしいですか? 私のやっていることは、菜摘にとって良いことですか? 悪いことですか?

 菜摘が生まれたのは、昭和62年3月12日だったね。 とても綺麗な赤ちゃんだったから、知らない人にも声をかけられた。 次の年の12月12日に、円香が生まれた。 二人は、いつもケンカしていたけど、仲良かったよね。 円香が一番頼りにしていたのは、菜摘だったんだよ。
 かわいい顔していて、外で遊ぶのが大好きな女の子に成長して、男の子も、女の子も関係なく仲良くしていた菜摘が、とてもまぶしくて、うらやましかった。 小学5年生になると、少しずつ女らしくなってきたよね。ママにとって、とても嬉しかった。

 平成9年7月1日午後4時35分頃、ピアノの教室に向かうため歩道橋のスローブを自転車でおりてきた菜摘は、トラックに頭をひかれ即死した。 ごめんね、一人でいかせて、つらい思いをさせたね。 その時、ママは、仕事の帰り道だった。 警察からの電話は、円香が受けて知らせてくれたんだよ。 警察に電話したら、警察署に来てくださいって言われて、「どうして病院じゃないんですか?」って叫んだ。 パスから降り、必死で探したタクシーは、事故現場を通って来たタクシー。 菜摘が迎えに来てくれたの?

 菜摘が亡くなって、何をしていいのか判らなかった。 今も、手探り。 結局、事故の真相は判らないまま・・。 でも、どうしてトラックの運転手が不起訴なの?菜摘は亡くなったのに。 警察の人は一番優しかったけれど、仕事だから、何もおしえてくれないの。 やっと手に入ったのは、「実況見分調書」だけ。 菜摘は、道路に出てなんかいない。 それまで我慢してたけど、どうしても納得がいかない。 でも、一般人に出来ない事、教えてもらえない事が、あるんだって。 ひどいよね。

 トラックの運転手は、1回も会いに来ないよ。 忘れたいんだって。 全部、保険屋さんにまかせてる。 ママは、菜摘に言っていたよね。 どっちが悪いか判らなくても、とりあえずあやまろうねって。 おじさんは、そうじゃないらしい。

 民事栽判は、月1回のペース。 栽判所の人や弁護士たちは、みんな顔見知りだから、ママからしたら、和気あいあいって感じ。 菜摘を知らない人ばかりだから、ママは心配で、毎回出席しています。 なあなあになんて、させないからね。 ママに勇気を下さい。

 菜摘は、知っていますか? ママは、いつも菜摘の寝顔を見て、「ママより、先に死なないでね」って、お願いしていたのを・・・・。

 

 「甥の交通事故」   旭川市  H・O

 ある日曜日の朝、甥が交通事故に遭ったと言う知らせ。詳細が判ったのは、それから数時間後。

 仲間4人でドライブ中、カープを曲がり切れず電柱に激突、後部席にいた甥は頭部を強打して即死。他の仲間3人は無傷だったとのこと。甥は、25歳の若い命を閉じ、この世を去った。いや、’去らせられて’しまったのだ。

 折悪く、姉は義兄と別居中。義兄の兄姉達が四方八方手を尽くし、葬儀には何とか間にあった。息子の変わり果てた姿と対面し、棺に横たわっている息子の頬を撫でながら、名前を絶叫し“ごめん、ごめん”と詫ぴながら泣き伏していた。
 葬儀では、これからクラス会でも始まるかのように沢山の若者達がお参りに来てくれた。甥の死をこれ程悲しんでくれる沢山の仲間がいてくれたことを知り、姉は、あらためて涙していた。

 初七日もまだ迎えぬうちに、加害者親子がやってきて、“生前貸してあった携帯電話を返して欲しい”と。“お借りした携帯電話は、お返ししますから、息子の身体を元通りにして返して”・・・、きっと姉は、こう叫ぴたかったに違いない。最愛の息子を失ったショックからか、怒り狂う気力さえもなくしてしまったかの様に思えた。本当に何という仕打ちなのだろうか。
 4人の中で、ただ一人甥だけが亡くなった事でさえ悔しいのに、この加害者親子は、この世の中で本当に生きて来た“人間”なのだろうか?当然のことながら、その後の補償間題は、うまく進展していない。

 お正月、姉は母に電話をした。母さん元気?今年は忙しくて年賀状出せなくて・・・・“みんな元気なんでしょ?うん。元気よ”こう答えることが姉の精一杯の親孝行だったに違いない。
 やがて90歳に手が届こうとする母は、今だ孫の死を知らない。

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