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「大典鎮魂」   美唄市  吉岡 稔 

今から13年前の4月12日の真夜中、東京の宿舎で私は妻から「大典が交通事故で死んだって、遺体を確認してほしい……」と、微かにそう聞き取れたような電話を受けた。

 当時、息子は、同志社大学の3回生になったばかりだった。その息子に限って何かの間違いだろうと思い、2度3度聞き返しているうちに、京都の警察署から知らせがあったという。

 私は、妻の話を聞いて、妻や娘に何か気遣う余裕もなく、全身の力が抜けていくのをとめることができなかった。

 翌日、私どもは、京都の警察署で合流し、警察官や友人から話を聞いた。
 事故当夜、息子は友人とバイクで夜食を食べに行く途中、事故に遭遇したという。息子が、ゆるい右カーブに差しかかったとき、反対車線を花見酒に酔い、居眠りしながらジープを運転していた若者が、突然、中央分離帯を乗り越えて、友人の後ろを走行していた息子を跳飛ばし、死亡させたものだった。

 ジープは、そのまま民家に突っ込み、気が付いた若者は、その場から逃走、翌日、警察署に出頭したそうです。息絶えだえだったに違いない息子を放置したまま逃走し、また、執行猶予と決まった途端に手の平を返したような若者、この若者の刑がこの程度だったのか、今もって納得がいきません。

 大学を出たらの夢を膨らませていた息子が、可哀想でなりません。

 裁判で、遺族の立場や心情も訴えられないばかりか、加害者の事故後の状況変化を重視したかのような今の制度は、片手落ちと言わざるを得ません。

 今でも、重い実刑判決が求刑されていたらと思っています。尊い生命を奪った者の、せめてもの酬いとして当然の刑罰だと思います。

 色々なことで、今でも息子のことを思い出します。特に、私と妻で外出するとき、よくバイクの若者を見かけます。そんなとき、不思議な感情が湧いてくると同時に、バイクで帰省したことのある息子のありし日の姿が思い出されてなりません。  合掌


 「妹」   札幌市  松井 美香
 
 平成10年6月26日、私は交通事故で妹を失った。前日の夕方、学校から帰宅し、買い物に行った帰りの事故だった。妹はまだ17歳でした。
 これから沢山の人に出会い、沢山の楽しい事があり、いつか大切な人と結婚してと、いろいろとあっただろうに、一瞬で小さな幸せも全て奪われてしまった。

 私は妹と一緒にやりたい事が沢山あった。旅行に行ったり、買い物に行ったり、まだまだ一緒にいたかった。もう笑顔が見られない、声が聞けないと思うと涙が止まらない。
 交通事故で大切な人を失うなんて思いもしなかった。本当に突然だった。
 今でも、妹が「ただいま」と言って帰ってきそうな感じがする。

 私達は3人きょうだいで、私が一番上、真ん中が弟、そして一番下に妹の理恵。
 昔、私は、ひとりっ子に憧れた。妹が生まれてこなければ、なんてことを思った事もあった。
 妹に「お姉ちゃん、まだ一人暮らししないの?お姉ちゃんがいなくなれば、一人部屋になるのに」と、早く出ていけと言われた事もあった。

 普段は口に出さないが、私は妹が大好きだったし、かわいい妹だった。そして、妹がうらやましかった。なぜなら、私にはないものをすべて妹は持っていた。
 周りの人達に、妹に似ている、姉に似ていると言われると、お互いに「嫌だー!!似ていないし似たくもない!」と言っていたが、私は本当はうれしかった。面長な顔に、細くてきれいな指。優しくて誰からも愛される妹。私の自慢の妹。そんな妹が、先に出て行ってしまった。それも、二度と会うことの出来ない遠い所へ。

 まさか交通事故に遭うなんて、そして、逝ってしまったなんて、今だに信じられない。
 どこに行くにもついてきた妹。きっと、いつも側にいてくれていると、私達家族は思っている。

 交通事故というのは、みんな「他人事」と思っている事だろう。「自分は大丈夫」と思って安心してはいけない。自分や家族、自分の愛する人を大切に思うなら、交通事故は減ると思うし、無くなるのではないかと、私は考えている。  自分が良ければと思う、それが交通事故につながっていく。
 もう、こんな悲しい思いは二度としたくない…。

 
「あの悪夢の出来事」   上川町  小西 めぐみ 
 あの悪夢の出来事から4度目の春を迎え、貴宏は今頃どう過ごしていますか。こちらは、桜も咲きやっと春がやって来ました。
 季節が変わった今でも「ただいま」と玄関を開けて帰って来るような気がし、ふっと目頭が熱くなります。
 今でも時折、貴宏の同級生はお参りに寄って近況報告をしてくれます。仏壇にはいつも沢山の花、そして食べ過ぎじゃないかと心配するほどの果物、お菓子がお供えしてあります。

 小さい頃はよく、お供えしてあるものを取り合いしてまで食べていましたね。取り合いする相手がいない今は何か気が抜けて、とても寂しいです。一つの物を一人で食べるより、たとえそれが半分になっても一緒に食べるのが、どんなにおいしかったか、今更ながら身にしみて実感しています。

 あれから4年・・・・まさか、あの悪夢の出来事、友達の車に同乗し、他の子は、かすり傷程度だったにもかかわらず貴宏だけがと思うと、悔やんでも悔やみきれない気持ちで一杯です。
 いつだったか「僕は病気では死なないよ。死ぬときは事故で死ぬ」と言ったあの言葉。まるで判っていたかのように、その時は何言っているのと聞き流してしまったこと。何一つ姉らしい事をしてあげられなかったこと。貴宏と交わした言葉が未だに思い出せず後悔しています。

 みんなそれぞれに年を重ねていくのに、貴宏だけがいつものあの笑顔で変わらないのが、とてもくやしいです。でも、いつも見守ってくれていると思うと、少しは気持ちがなごみ、貴宏の分まで生きていこうと前向きに考えられるような気がします。きっとこの気持ちは、自分の身近で経験した人にしか判らないのかもしれない。けれど、沢山の人達がこんな辛い思いをしてほしくない。そう思うとなんとも言いようのない熱い思いがまたこみ上げてきます。
 貴宏の姉は、立ち直るには、まだ時間がかかりそうです。見捨てないで見守っていて下さい。 
                                                       姉より


 「娘よ、今どこに」   札幌市  水野 美代子
 
 交通事故、毎日のようにテレビ、ラジオや新聞で見聞きしているが、まさか自分に降り懸かってこようとは。
 事故の電話連絡を受けたときには、腰の力が抜けていくような、何が起こったのかと頭の中がからっぽの状態でした。
 平成4年2月15日、2月としてはめずらしいくらいお天気が良い日だったように覚えています。 娘の勤務先の職場レクリェーションで4台の車に分乗してキロロのスキー場へ向かう途中、同乗していた車が大型パスと衝突し、3人が重軽傷を負い、娘と運転者が帰らぬ人になってしまいました。車のタイヤはスタッドレスでした。

 突然の悲しみ、ショックそれとストレスで私達夫婦はそれぞれ手術を要する病気にもなりました。
 「ただいまー」と帰ってくるのではと思い、毎晩玄関の外灯を朝まで点けて、また電話がかかってくるのではと、待ったりもしました。他人からの哀れみが嫌で人目を避けたい気持ち、折角の慰めの言葉にも腹立たしさを感じることも度々でした。
 「職場のレクにいきたくない、でも皆がいくから・・・」と言っていた娘の言葉が耳に残っています。あの時引き止めはしましたが、職場の行事なので心配はしませんでした。

 娘の結婚話が具体的になるところでしたので、将来を楽しみにしていたのが、一瞬にして悲しみとなり、怒りと悔しさが納まらない日々でした。街へ出ると買い物をしている母娘づれを見るのもつらく、ウィンドーに飾られている花嫁衣装や洋服、アクセサリーなど、全てが悲しみとなり、何もかもが空しく、私自身生きていることさえ辛くも思いました。碧い空や美しいものに心が動くようになるのに随分年月がかかりました。

 支店全員参加のレク行事中の事故であったことと、発生場所は前年まで冬期間閉鎖していた国道393号線は危険な道路なのに、観光レジャーの為に開通して大型パスを運行させていたこと、場所が行政の谷間のようなところで救急車が到着したのは発生から2時間近くも経ったこと等、公的にも何らかの責任があるのではと思いますが、個人的には企業・行政・法律等々の壁があり、泣寝入り以外は無いのでしょうか。

 たくさんの人達との出会いがあって私達夫婦は、支えられて今日に至っています。特に学生時代の親友数人が毎年命日に来ていただいています。娘も一緒におしゃべりしているような雰囲気に私達夫婦はとても感謝しています。彼女の部屋は整理しなけれぱと思いつつ、まだ当時のままベットには娘が大好きだった大きな「うし」のぬいぐるみがあり、私は辛くなるといつも抱きしめています。
 娘は今どこに居るのでしようか。どうか楽しく過ごしていますようにと、空に向かって毎日祈っています。友達と電話でおしゃべりするのが好きな娘は21歳でした。