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 「一瞬にして、両親そして姪の命も・・」   栗山町  H・K

 あれは忘れもしない13年前、昭和62年10月27日、秋晴れ、とても日がまぶしかった。  私は、いつも忙しくて朝の事は鮮明に覚えています。  農業を営んでいる両親から頂いた新ジャガイモを会社に持っていこうと蒸しながら仏壇に参っていた。主人を病気で亡くしてから日課である。

 今日一日、何事もなく無事に過ごせます様にと願い、ジャガイモを抱えて出勤しました。そして10時の休憩のチャイムが鳴り、みんなと「おいしいね」と食べ終え、仕事開始の10分後位に私の名前が呼ぴ響きました。「あれ、どうしたんだろう、この時間に子供達に何かあったんだろうか」と心配しながら事務所に急ぐ途中、叔父が事務所の所に立っていた。不吉な予感が・・・、そこで両親と姪の交通事故を知りました。

 軽トラックで姪を保育所に送って行く途中、自宅から100メートルの所で、一時停止を無視した自動車と衝突。父が運転していた車は、母と姪を乗せたまま川に横転し、父と姪は即死状態、母は近所の人の助けですぐに札幌方面の病院に。
 私と妹は、母だけでも助かってほしいとすがる思いで急ぎましたが、母はもう息を引きとった直後でした。 心電図はピーと鳴ったまま・・・
 母の体は暖かった。頬もまだうっすらと赤かった。母さん母さんと叫んでも言葉はなかった。

 私は病院を後に、母の遺体と一緒に実家に着いた。仏間には、3組の布団が川の字に敷いてあり、もう父と姪は・・・言葉が出ません。信じられません。
 弟夫婦の悲しく泣き叫ぶ声・・・。私も叫びたい気持ちでした。どうして、なんで・・・・・。

 葬儀が終わり、身内にとって辛い日々が続きました。
 この時、初めて判りました。事故のあったあの日の朝、何気なく読んだあの御文章。それは葬儀にしか読まれないという事が、まだ若かった私には判らず無意識に読んでしまったのであります。自分でも、どうしてあの時、あの御文章を読んだのだろうかと、自分の行動を疑いました。

 今年は、十三回忌です。あの事故から月日が流れ、両親も元気だったら70代、姪も17歳です。
 だんだん日が立つにつれて事故の事が簿らぎ、忘れ去るような気がします。  でも、忘れてはいけないのです。加害者も被害者も、一生背負っていかなくてはならないのです。  私達身内にとって、あの事故は悔しい思いで一杯です。  だから、お互いにスピード、標識を守り、事故を起こさないように、いつも心がけるべきだと思います。

 

 「交通事故で亡くなったボーボー」   札幌市  T・N

 お姉ちやん2人の次にやっと生まれた男の子。みんなの喜ぴは、それはそれは、大変だったよ。あだ名は、ボーボー。
 決して人より優れている所はないけれど、ノンビリ屋で、笑顔のかわいい男の子。お父さんとお母さんが、おじいちゃんとおぱあちゃんになったら、ボクが面倒見るからネと言ってたよネ。
 でも、6年生のある日、突然ボーボーは、みんなの前からいなくなっちゃった。ほんの2時間前、「行ってきま−す」と手を振って行ったきり、いなくなっちった。「どこへ行ったんだよ−」「夢でもいいから、帰って来てくれよ−」

 ボーボーがいなくなって、みんなが毎日毎日、泣いて過ごしたよ。おじいちゃんは「代われるものならかわってやりたい」と泣いていたよ。クラスのみんなも泣いたよ。でも、いくら泣いてもボーボーは帰ってこないネ。

 ボーボーがいなくなって9年目になるよ。今でもボーボーの話をされると、悲しくて悲しくてボロボロ涙が出てくるよ。何年たっても、ボーボーがいなくなった悲しみ、寂しさは、あの時と同じだよ。悲しいよ−。悲しいよ−。それからそれから、人並みに育ててあげれなくて、ゴメンネ、ボーボー。ゴメンネ。

 毎年ボーボーの命日には、クラスメートが来てくれるよ。みんなそれぞれ忙しいのに、ボーボーのために集まってくれて、近況を聞かしてくれるんだ。ボーボーのクラスのみんなに会えて嬉しいよ。今年は何人来てくれるかな。わが家では、ボーボーの命日が待ちどおしい日になったよ。ボーポーの友達に会えるから・・。

 「父抱いて、笑顔の写真卒業す」

 ボーボーがいなくなってから、お父さんは酔っぱらうと、男の子がいないからなァーと言います。寂しい顔をして・・・。
 相手の方も、事故のため、離婚をして家の中がパラパラになったと聞いているよ。ほんの一瞬の出来事が、二つの家族の幸せを、吹き飛ばしてしまったよ。
 教習所の先生がおっしゃってたよ。「危ないと思ったら、ブレーキを踏んで下さい」と・・・。
 朝は、紅顔でも、夜は自骨となれる身です。
 ハンドルを握ったら、気をゆるめず、気持ちと時間に、ゆとりを持って、運転してください。どうぞ、どうぞお願いします。これ以上、悲しい家族が増えないことを願っています。


 「社会貢献できなかった息子。残念でならない。」   深川市  伊藤 博明

   平成7年11月14日、青森大学2年生の長男はアルパイト先の靴屋さんから自動二輪のパイクに乗って下宿に帰る途中、地理不案内で蛇行しながら走行してきた乗用車が前をよく見ないまま農道に入ろうと右折したために、センターライン寄りを走行していたらしい息子のパイグは避けきれずに乗用車の側面に衝突、息子の体は20メートルも跳ね飛ぱされたというのです。

 私は職場の外回りから帰った途端、「大変だ。大変だ。息子が大変だ」と同僚が駆け寄ってきたのです。一瞬何が起こったのだろう、警察から電話?エッ何のこと?聞いているうちに、自分が今何を、どうしたらよいのか、体は震え、頭の中は完全に混乱していました。別の仕事先にいる家内に、どうやって連絡し、事態を伝えたのか今でも思いだせません。
 取りあえずの青森行きの機中で、その時の「意識はありません」の言葉に気丈な子だからきっと大丈夫。しかし、「脳の損傷がひどく心臓が止まった状態で搬入・・と続けて聞かされた言葉に、本当にだめなのか、という堂々めぐりの、何とも言えない暗い交錯が胸を締め付けました。

 面会謝絶の札の掛かっていない病室のドアを目にしたときの情けなさ。ベットに横たわり、人工心肺の管をロにし、物言わぬ現実の息子を前にして、大声をかけてやる気さえ起こりませんでした。その2日後、側から離れようとしない家内に手を握られたまま、息子は別れの言葉も出せずにこの世を去りました。
 悔しかったであろう。親しくしてくれた友達や、お世話になった多くの皆さんに何ひとつお返しをすることができなかったのですから。

 志し半ぱにしたこの事態をどう始末したら良いのか。息子の亡骸と相談しました。息子は、“俺の目は、透き通っている。目の悪い人に俺の目をあげてくれ”そう言っているようでした。角膜移植なら間に合う。即刻献眼の手術が施されました。その後、2人の方が光を取り戻したとのことでした。
 ”俺はなんにも悪くない”と胸を張って歩く最愛の息子が偲ばれます。


 「貴方」   札幌市  M・M

   「まだ、死ねないね。だってまだやりたい事が沢山あるもん」と、新聞やニュースで悲しい事件や事故を見聞きする度、貴方はこうもらしていた。自分の未来に大きな夢を持ち、それを実現するカも十分あったのに、砕け散るには一瞬の出来事だった。私達に4年目はなかった。

 平成10年秋に貴方は遠くの街に就職した。卒論や就職活動で忙しかった私は、クリスマスに遊ぴに行くと約束し、電話で聞いていた貴方の新生活を想像しながら、楽しみにしていた。そして、就職から1ヶ月後、友人の車で帰省すると連絡があり、私は、いつものように家で待っていた。でも、貴方は来なかった。助手席の貴方だけが逝ってしまった。

 告別式が終わるまで、私はショックで涙も出なかった。全ての思考回路がストッブし、胃は何も受け付けなかつた。
 初めて会う貴方のご家族、ご親類、お友達。なぜ私は一人で挨拶しているのだろう。
 緊張の糸が途切れてからは、これまでの情景が何度もフラッシュパックし、時も場所も選ぱず涙が溢れてきた。どんなに楽しい思い出も、もう悲しみでしかなく、新しい思いを作っていくことも不可能なのだ。
 「もし、あの時・・していれば」と悔やんでも、貴方の死が現実な以上は納得のいく答えはない。だから、私は「もし」は言わない。その代わり自分の未来にも何の期待もしていない。貴方あっての未来だったから。

 今春、私は就職し、新しい生活を始めている。周囲の人に「彼氏はいるの?」と聞かれる度に、「遠くにいる」と、現実を受けとめきれない私がいる。無邪気に質問してくる人達には、きっと考えも及ばない世界の話なんだろうなと思いつつ、一人の人間の存在の大きさや命の尊さについて、日々深く考えている。

  ”さて、今回このような場で、一私達関係者の思いを表出する機会が与えられたことを、大変感謝いたします。しかし、私は、あの日以来手紙や電話、Eメールといった手段で人に伝える事で救われてきました。だから話せる段階にいるのでしょう。この苦しみ、悲しみは、経験した者でないと判らないでしょうし、立場によっても思いは様々でしょう。愛する人を失う人がこれ以上増えないよう心より願っています。