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 「交通指導の情熱」   札幌市  輪島 栄子

 昭和45年7月20日、私の兄は35歳の若さで、暴走車に命を奪われました。
 兄は、当時、留萌小学校の教師でした。交通指導係を受け持って2年目でした。通学路の歩き方、路上で遊ばない、風雨の時の歩き方など、交通指導日には必ず通学路の主な交差点に立って、児童を輸禍の犠性から守って来た兄。

 その兄が、大好きな釣りに行った帰り道、国道を時速85キロの猛スピードで走って来た乗用車に自転車ごと跳ね飛ばされ、頭蓋骨陥没で即死しました。
 事故に遭う1週間ほど前、札幌での研究会があり、当時、円山に住んでいた私の家に3泊して帰ったぱかりでした。電話があった時は、信じられなく、へなへなと座って、腰が立たなく泣き崩れました。

 兄は、当時、3歳と5歳の女の子2人と奥さんの4人家族でした。
 その後の生活は、親子3人辛い、悲しいものでした。
 「お父さんがいたら」この言葉が胸に突き刺さりました。兄が亡くなってから奥さんは、和栽で細々と生活を支え、親子3人長い苦労の生活でした。

 ユーモラスで穏やかな兄でした。教育熱心で、交通指導係の責任者だった兄であったのに、全校児童の命を守り続け熱心な交通安全教育とともに、あの暴走車によって、あまりにも無惨に、輪禍の犠性者となってしまったのです。
 若かった兄をいつまでも忘れることが出来ません。


 「誠意ってなんですか?それはお金ですか?」   室蘭市  及川 正子

 「誠意ってなんですか?それはお金ですか?」加害者の口から出たこの言葉私の頭から一生消え去る事はないでしょう。
 人間として最も大切にしなくてはいけない人の命と事故を起こした責任感と罪悪感が軽視され、事故を起こしたら保険があるからとか、保険屋に任せておけばいいなどと、背筋の寒くなるような考えを持って運転している人・・・。
 人の命は、尊いもの、この世に一つしかない掛け替えのないものなのです。

 正月も抜け切らぬ1月4日、電話のベルが主人の事故を知らせた。通報者は加害者、いたって冷静な声で、 「ご主人が事故に遭いました。今救急車を呼んでいます」、私は「どんな具合ですか、命に別状はないんですか病院はどこですか」の問いかけに、加害者は、「消防署に聞くとわかるんじゃないですか」と・・・
 病院に運ぴ込まれた主人は、無惨としか言い様のない、顔面蒼白、体中が血だらけで、幸い一命は取り留めたものの瀕死の重傷、震えて立ちすくんでいる私達に、やっと出てきた加害者は「全部保険屋さんにまかしてありますから」と何を言っても「保険屋さんに聞いて見ますから」とあまりの情けなさに「誠意はないんですか」と言ったところ、加害者は、「誠意って何ですか?お金ですか?」ですって。悔しくて涙も出ませんでした。

 二度の大手術で何とか命びろいをしましたが、座ること、胡座をかくこと、しゃがむことも全部だめで、重度の身体障害者になってしまいました。毎日3回の痛み止めを飲む生活に体調を崩し、体の調子が悪くても後遺症のためと思って我慢し続けたため、気づいた時は、ガンの末期で、1年の闘病後、今年2月、悔し涙を流しながら天国へ旅立ちました。
 主人は、これからの二人の人生を考えて35年勤めた会社を60歳で退職、資格を取りに行ったり、旅行に行ったりと頑張っていた矢先、散歩の途中にこんな結果になるとは・・・・・。

 人の命は物ではないのです。生きているのです。どうして、心から償うという気持ちになれないのでしょうか。加害者の彼が、私達と同じ立場に立った時、
    「誠意ってなんですか?それはお金ですか?」
といわれたら、なんと答えるでしょうか。
 その後、加害者からは何の音沙汰もありません。


 「B子ちやんが逝く」   札幌市  T・N

 平成9年6月中旬、青葉、若葉の芳香ただよう薄暮時の事故である。
 電話が鳴り響く、直ちに受話器を取る。孫の両親からである。その声は、途切れ、途切れで震えているので、普段の様子ではないと思った。
 「・・・子が死んじゃった、車に引かれて、・・・」後は言葉にならない。無理もない。物わかりのいい可愛い一人娘。幼稚園2年目になる幼児である。

 私達祖父母は現地に走った。ただ、生きていてくれよと願いつつ、命だけはと・・・。しかし、無情にも願いは打ち消されてしまった。B子の体は冷たかった。スイスイと眠っているようで、無邪気な顔である。傍らで両親は放心状態でわが子を見守っていた。
 私達は、頬にふれ、小さな手を握りしめ、名前を呼ぶも声はない。ただ、呆然として、悲しく涙も出ない。次第に時間が過ぎるにしたがい、涙がドーと溢れ出て、B子の体に泣き崩れた。不注意一秒にして家族との幸せが水の泡となってしまった。

 すこし時間を置いて原因を聞いてみた。自宅前でマイカーで帰宅した家族が車庫入れ中に安全確認しないで後退したために、押し倒され引かれたとの事である。基本的なミスで残念でならない。
 すぐに近くの病院に行くが時間外で受診されず、次の病院でやっと受診していただき、親身な応急処置をされたが、その効果も空しく天国の人となった。診断名は、脳挫傷、胸部圧迫である。

 幼稚園では、3日前に楽しい運動会が終わり翌日は遠足が予定されていたが、喪に服することで、順延されたようです。そして、告別式では大勢の園児にB子を見送っていただいた。いまだに、可愛い仕草が頭から離れない毎日である。
 ドライバーの皆さん、他人事ではありません。一瞬の不注意が死亡事故につながりかねません。運転するときは、車の回りの安全確認とともに、歩行者にも車にも、思いやりのある慎重な安全運転で、交通事故死ワーストの汚名返上と価値ある車社会にしていただきたくお願いします。


 「突然、なんの前触れもなく主人は...」   釧路市  M・H

 私は、昨年10月に突然主人を亡くした。あれから半年過ぎた今も苦しんでいる。さっきまで一緒に生活してた人が、何の前触れなく死んでしまった。どうして、こんな事になってしまったんだろう。どうして何にも悪いことしてないのに27歳で死ななきやならないの。
 私も主人もこれからの夢や希望もまだいっぱいあったのに。
 死ぬ事が何なのか、生きる事がどういう事か、もう私にはわからない。回りの人達は、「がんぱったね」とか「みんながついているから大丈夫」とか言って励ましてくれる。
 でも、愛する人がこの世から突然居なくなる悲しみは、誰にも判らない。突然で絶望的で、もう私はこの先一人でどうやって生きてゆけぱいいのか、わからない。みんな、他人の事だから簡単に、そんな言葉が言えるんだと思った。

 主人を亡くして、世間の冷たさも知った。
 毎日、泣いてばかりいると、「もう死んだ人は返ってこないんだから、子供の判らないうちに再婚したら?」と言われてみたり、がんばって無理に明るくしていると、「旦那さん亡くしたぱかりなのに全然悲しそうじやない」と言われて、もうみんな信じられないと思った。人の気持ちはそんな簡単なものじやない。

 毎日、私は死んで主人に会いに行くことぱかり考えた。でも、娘はどうしよう。娘は、まだ2歳で、パパが居なくなってしまった事をよく判っていない。娘は、今でもパパの帰りを待っている様子。他の家庭の父親を見て、パパいつ帰ってくるの?と言われて、私は何と言っていいか判らない。私が涙を流すと、娘は必ず「パパは会社、大丈夫」と言って、母親の私を励ましてくれる。私と娘は、一瞬の出来事で、もう二度と親子3人で楽しく生活することができなくなった。

 笑顔で接してくる娘を見ていると、一緒に連れて行くことはできない。娘を一人ぽっちにすることもできない。私は、どんなに悲しくて、つらくても、生きるしかない。
 2歳の娘を無事に成長させたら、私は、早く主人が迎えにきてくれたらいいと、思っている。それまでは、精一杯生きて行くことにします。