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「たった一人の一年生」   京極町  K・S

 昭和57年12月、元気にわが家の三男坊として授かり、元気に、素直に育っていました。
 平成元年4月、この年は、たった一人の1年生ということで話題になり、テレピ、新聞などにも出た年で、わが家の子もたった一人の1年生だったのです。楽しく過ごしていた学校生活、5月に入って運動会の練習、そして5月25日は遠足でした。楽しんで、ニッコリ笑っている写真が残っています。

 その翌日、5月26日、突然の事故でした。信じられませんでした。
 交通事故、それは、テレビ、新聞等で毎日のように出ていましたが他人事のように、「えっ、また、可哀想に」と思っていたのです。  その交通事故と言う事実が突然わが家に降り懸かったのです。

 「足や手が折れた位なら・・・」そう思いながら現場に向かいました。
 わが子を見たとたん「あっ・・・」、子供にすがり、「どんな姿でもいい助けて」そう思いましたが、その思いも届かずに、私達家族からたった一人で旅立って行ってしまいました。

 三男が亡くなって11年目になりますが、その当時6年生だった長男は、修学旅行でいませんでした。4年生の次男と3年生のいとこの3人で学校へ行く途中に起きた事故、目の当たりに見ているのです。その小さな胸にどれほどの悲しみ、辛さ、怖ろしさがあったか、計りしれません。

 他人は、その場限りで、時の移りと共に忘れてしまうでしよう。でも、家族は一生子供の仏壇を前にして、悲しみに耐えていかなけれぱならないのです。
 この子も、元気でいれば高校2年生です。いとこに一つ違いの子がいますが、いつも「あぁもうこの位い大きくなっているんだろうなぁ」と想像はするものの、思い浮かぶのは、当時の6歳だったわが子しか浮かぱないのです。
 11年たった今も、毎日手を合わさずにはいられないのです。2人の兄たちも、昨年就職し、免許を取り運転する身になって新ためて交通事故の恐さを実感しているようです。私も、毎日言う言葉は、決まって「気を付けて行きなさい」「スピード出すんじゃないョ」と口うるさく言わずにいられません。

 この4月に友人のご主人が事故で亡くなり、そして又、5月15日にも次男の友人が、19歳の若さで亡くなり、本当にやりきれない思いです。皆、これからと言う時の事故でした。
 自分だけは、大丈夫ということはないのです。
 家族そして他人にもー生悲しみ、苦しみを与えるのです。一人一人が本当に気を付けて、交通事故の恐さを新ためて考えてほしいのです。
 毎年、増えていく交通事故、わが身に降りかからないとは限らないのです。
 運転する人、一人一人が本当に交通ルールを守って、安全運転を心がけてほしいものです。
 悲しむ家族をこれ以上、増やしてほしくないのです。

 この文章を書くに当たって、本当はもう事故当日の事は、思い出したくない、という思いもあり、どうしようか迷いましたが、ドライバーの皆さんに少しでも、事故の恐ろしさ、悲惨さを判っていただけたらと思いペンを持ちました。


「息子が生きた証を」   札幌市  E・G

 連絡を受け、病院へ駆けつけると、すでに白い布が・・。信じられない。ただ、茫然と涙も出ない。
 慌ただしく葬儀の準備が進む毎に、涙が止まらなくなる。納骨までの間、寝床に着くと、除夜の鐘の音が遠くで聞こえる・・・。
 その音が、「母さん、ごめん」とも「母さん、痛いよう」とも聞こえてくる。母親を亡くした時も、勿論悲しかった。でも、重みが全然違う。心のどこかで、親は子供より先に死ぬと言う頭があるからだと思う。

 他人は、「まだ○○ちゃんがいるんだから、がんぱって」と言うが、亡くなった息子と残っている娘は別々であって、代わりにはならない。親と自分の老後の設計を立て、着々と進めていたのです。まだ、二十二歳だというのに。私の一番の話し相手であった息子が亡くなり、余りにも辛くて「愛する家族を亡くした」人の本を読んだり、どうしたら、息子が喜んでくれるのか「あの世で幸せになるため」の本も読んだ。

 電車に飛ぴ込みたくなった時もあった。お酒が飲めたら、お酒にも溺れたかもしれない。
 息子が、今、正に生き返る瞬間の夢も見た・・・。こんなに辛いのです。
 ですから、もう、誰にも泣いてほしくないのです。自分の命であっても、自分だけの命ではないのです。大事に、大切に、一日一日を暮らしていかなけれぱいけないと思います。
 何か、息子が生きた証を残したくて・・・・・。


「面影を偲びて」   札幌市  佐川 昭彦

 毎日のように繰り返される交通事故。走る凶器と騒がれて半世紀、「気を付けねば」と自身に言い聞かせた矢先。耳を疑う交通事故の知らせ。気も動転し、駆けつけた病院で「つい先程、お亡くなりになりました」との宣告。それも、夫婦揃って・・・・。足が震え、気力も喪失。ただ茫然とするばかり。

 それは、忘れもしない、9月17日午後4時。嫁のご両親が北広島の町道で、事故に遭ってから2時間後のこと。
 日頃、ご夫婦で左右を確認し、声を掛け合っての慎重な運転。子供達にも交通マナーを厳しく言い聞かせていた模範運転手の故人が、「なぜこんなことに」深い悲しみによる嫁の号泣が今も耳に残って・・・・。

 この忌わしい事故から8か月。事故現場では、今日も猛烈なスピードで通過するダンプ。シートベルトをして身構え、エアバック装備の頑丈な外国車であってもこのダンブには、勝てない。その上、立派な舗装道路の十字路で、信号はもとより、一時停止の標識や停止線すらないお粗末さ。更に、条件が悪く、左右同じ道路幅で、優先を表す白線も薄く、西日を受けるとまったく見えない状況下での事故。しかし、ダンブ側の過失は、優先道路のため1割、乗用車側が9割悪いという。この理由からか、2人もの尊い命を奪い、残された者の心に大きな傷を負わせても、保険会社任せの事故処理と冷たい法の裁きを知る。

 退職直後の8月、「これから充実した2人の老後の生活が始まる」と笑いながら話した故人。唯一の楽しみがドライブ、そのドライブの最中に起きた事故。穏やかで明るい老後を夢見た生活も、わずか3か月。故人の無念さを思うと夜も眠れない。
 生前、几帳面に色分けしてあった球根を、故人を忍ぴ、子供達と涙して植えたチューリッブが見事な花を付けている。
 自然の営みは生命を得、人間の営みは命を奪うのかと、
    「遺る瀬無く、今は亡き人を忍びて満開の花を見る。」


「父と母へ」   旭川市  長瀬 初美

 ある日突然に、私の父と母は逝ってしまった。
 平成10年2月28日、父と母が乗っていた軽トラックに、一時停止を無視した乗用車がぶつかって来たのです。母は即死。父は手術中に亡くなりました。
 昨日まであんなに元気にして、孫の入学を楽しみにしていたのに、そして、妹の結婚式だと喜んでいたのに、そんな父と母は突然いなくなってしまったのです。
 今まで幸せだった生活から、一挙に地獄に落ちたような気持ちでした。人生が変わったのです。

 被害者となって一番辛い事は、加害者の方の顔を見ることです。恨んではいませんが、許せないのです。顔を見る度、「この人が、私達を変えたんだ、この人のせいで、父母が死んだんだ。」と思うと、胸が苦しくなり、涙が止まらないのです。四十九日以降は「もう、来ないでほしい」保険会社の人を通じてお断りしました。もう父や母は戻ってはこないのです。
 加害者の方も、一生この罪を背負っていくのでしよう。「なぜ、こんな事になってしまったのか」、「なぜ、父と母の車にぶつかったのか」、「なぜ、私の父と母が死ななけれぱならなかったのか」・・なぜ・・・なぜ・・・・。
 誰も答えを出してくれる訳はありません。

 その後、この一年は、とっても大変な事ばかりでした。私が病気になったり、農家をしていた父母の後始末、また、家を出なくてはならなくなったことや、保険会社との示談の話し合いなど、とても辛いことぱかりでした。
 もっと、もっと、お父さん、お母さんと話したかった。親孝行だってしたかった。何もしてあげれないままで、ごめんなさい・・・お父さん、お母さん・・。交通事故のニュースを見るたぴに、「被害者と加害者、そしてその家族は、悲しい思いをするんだ」といつも胸が痛むのです。


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