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「僕は、たった7歳で逝きたくなかった」   釧路市  佐藤 芳枝 

 僕は、何も悪いところは無かったのに、前方不注意の運転手の為に、明日、小学2年生になるという日に、7歳で優しい家族、お父さん、お母さん、雅、おじいちゃん、おばあちゃんと別れることになってしまった。どうしても、悲しくて、寂しくて仕方がありません。
 僕は、佐藤家の長男、そして、初孫として生まれた。家族4人は、大喜びだった。僕がオギャーと泣いて生まれたその時、病院の廊下に居たおばあちゃんも僕と一緒になってオイオイ泣いて大喜びだった。

 僕は、3歳の時からスポーツ万能の子供で、おじいちゃんが呉れたゴルフセットでのスイングは近所の人も驚く程カッコ良く、そして的にも良く当たって皆感心したほどだったのに。僕は、幼稚園の運動会でも、跳び箱、玉入れ、かけっこ、サッカーリレーの選手にもなって、お父さん、お母さん達も大喜びで自慢の子供だったのに。スキーだって、おじいちゃん、おばあちゃんと富良野スキー場に行き、山の頂上からでも滑れるようになって、おじいちゃんは大喜びだった。これからも、北海道のスキー場を廻って楽しもうねと言っていたのに・・・・

 おじいちゃんはどんなにガッカリしたかと悲しくて、悲しくて仕方がない。僕は、待ちに待った小学校に入学して明日から2年生になって、スポーツクラブに入るのを楽しみにしていたのに。野球もサッカーもホッケーもやりたかったのに。まみちゃんだって「大きくなったら雅秋ちゃんのお嫁さんになる」と言って居たのになあ。もうすぐ、6月3日で僕の三回忌がくる。

 どうして、たった7歳で優しい家族、沢山の友達と別れなければならなかったかと思っても、どう考えても悲しすぎるヨ。
 僕の優しい家族やみんなに逢いたいなあ。僕が逝って2年になるのに、毎日泣いている家族を見るのを、僕は辛いよ。そんな優しい家族と離れて、あの寒くて暗くて、寂しいお寺に行くのは嫌だよ。優しい家族といつまでも一緒に居たいなあ。
 二度と、こんな悲しい交通事故が起きないようにと願って、そして、僕の事故の事を忘れないように、飾ってあるんだよ。
 運転手の皆さん、僕のように元気イッパイ、希望イッパイで小学生になった子供を事故に合わせないで下さい。そして、優しい家族を悲しませないで下さい。
 ”前方不注意の運転手が憎い”


「ある日突然に」   浦河市  富田 富久

 平成10年11月5日(木)、晴れ、朝トントンと食事の支度、まな板の音に起き出す。妻は洗濯を終え朝食の準備に取りかかる。
 今朝は好い天気だ。秋も通り過ぎようとしている平和な一日の始まりだ。6時朝食、わが家の日課の始まりだ。NHK朝のドラマを見て、8時40分、妻を会社に送って行く。車を降りる時、「行ってきます」、「行ってらっしゃい」と声を交わしたのが妻との最後の会話であった。

 その日、私は花畑の後始末をし、遅い昼食を食べた午後1時ころ、電話が鳴った。「こちら日赤病院ですが、奥さんが交通事故で整形外科に来ておりますので、すぐ来て下さい。」私は、妻が手か足でも折ったのかと思いながら駆けつけた。
 外来の前で、外科部長さんが「今、検査を終えた処ですが、当院では処置が出来ないので静内の病院に転送しますので私も付いて行きます」と言われ、私は、「どうなんですか」と聞くと、「脳に血が回っているので重傷です」とのこと。
 側によって顔を見ると、目をつむったまま呼べど何の反応もない。その時私は、駄目だ、頭をやられていると感じました。でも、なんとか生きて居て呉れと願いつつ静内に向かった。
 静内の病院では、すぐに検査を1時間程してくれた後の説明で、タ方まで持つかどうか判らないと言われた。
 息子達も苫小牧から駆けつけてきたが、医院長の話は、暗くなる話ぱかりでした。「先生、何とかして欲しい」ど頼む。だが、結果は、2時間後には帰らぬ人となってしまった。事故から4時間、一言の言葉も交わす事もなく、手を握っても何の反応もなく、あまりにも呆気ない別れでした。

 48年問、一緒に生活していて、最後に一言のいたわりの言葉も交わすことなく去ってしまった。
 妻に対して、私は情けない、残念無念の一言です。
 12月末には退職して、その後の青写真も出来ていたのに、何もかにもが無です。
 一人で食事の支度をして、食べていても「あ〜おいしいね」と返る言葉もない。仕事から帰ってきても、お帰リなさいの声も聞けない淋しい一人暮らし。何で、こんな事故が起きたのであろうか。
 青信号で横断歩道を歩行中の事故でした。運転していたのは、中年のブロの運転手でした。脇見運転だという。いま少し気を付けていて呉れたなら、こんな悲劇は起きなかったであろうと、憎んでも憎んでも憎み切れない。

 私の心中には、いつまでも妻が生きていて、ただいまと戸を開けて帰って来るような気しています。
 しかし、無です。残念で残念でなりません。


「おやじと行った海が見える」   旭川市  Y・A 

 私は、青信号で横断歩遣を渡っている。右折の車2台がスピードも落とさず、連なって私の前を横切ってゆく。2台の車の運転者は若い仲間達のようだ。
 私は、彼らを睨みながら、「あんた達に挙げる命なんか一つもないんだからね」と心の中で叫んで居る。
 私になにかあれぱ、私の子供達は、二親を事故で失う事になる。絶対にそれだけはあってはならないと思っている。

 8年前、道路を横断中の夫を交通事故で失っている。
 その時、3人の子供達は、11歳、9歳、4歳だった。末っ子はほとんど父親の記憶がない。それなのに、テストの問題に「あなたの思い出の窓には、何が写りますか。」という答えに、「おやじと行った海が見える」と書いた。毎年、夏になると、子煩悩な夫は、浜益の海に子供たちを連れていって遊ばせた。遠い記憶の中で、そのシーンだけが思い出されるのだろう。
 私は、それを読んでボロボロと泣いてしまった。時の過ぎていくことだけが心の傷を癒してくれる薬だと思って、この8年間を暮らしてきた。

 あの若者達に、私達家族の苦しみや悲しみなんて見えないだろうけど、いつか、あの人達も家族を持つ時がくるでしょう。命の大切さをもっと考えてほしいし、車は運転者によって走る凶器になることを知ってほしい。


「花嫁姿、夢と消えた雨の夜」   札幌市  中川 俊男

 姪の十三回忌が今年の3月22日、しめやかに行われた。
 思い出に新たに涙の1日でした。
 良縁に恵まれ、結婚式も決まり、両家には喜びの日々が悪魔に似た1人の運転手によって、姪は呪うように昇天して行っただろう。  一家は奈落のどん底に落ち、何の気力もない数日間。

 忘れもしない13年前の3月24日、東区北31条東17丁目通り、みぞれ混じりの午後9時頃、信号機のない交差点、東から西に向かう乗用車の無謀運転に一度ボンネットに跳ねあげられてから振り落とされた轢き逃げ。付近の方の通報によって救急車で病院へ、医師の手厚い看護の甲斐もなく、家族に見守られて死去。
 当日は、結婚式の打ち合わせで婿が訪れ、地下鉄駅まで送っての帰り、傘を差して自宅に戻る途中の、あまりにもむなしく散った青春時代。

 帰りの遅い両親に不吉な予感、救急車のサイレン、外を見るとパトカーの赤い回転灯、まさかの半信半疑で近くの現場へ、ふと見ると娘の傘が開いたまま道路の隅に、気も動転、頭の中が真っ白、一人の警察官に「娘さんですか」と聞かれ、病院へと指示を受ける。
 数人の警察官が雨の中、身をかがめ証拠品探しに一生懸命の様子が印象深い。  事故の2日目、新聞、テレピの報道に犯人不明、憎しみは声にならず、力の入った拳が震えている姪の両親を慰める言葉もない。
 3日目、雪降りの通夜、訪れた警察官は必ず犯人を挙げると力付け、頼もしく思いました。
 涙、涙の告別式、婚礼間近のあの笑顔の姪は、小さな箱の人となる。
 早すぎる3分の1の人生、人の命は一寸先闇とお坊さんは言うが、殺される交通事故死は余りにも非道だ。
 夜、轢き逃げ犯人判明と電話が入る。だが、死んだ姪は帰らず、思わず馬鹿野郎と、怒鳴る。
 5日目の28日、加害者の両親が見え、只、謝りの繰り返しの言葉、涙も枯れ果て沈黙の数時間、意をくみお引きとりを願う。加害者自身は今だに顔を見せず。示談は、何回かの交渉で了解。

 変わらぬ姪の写真を見つめ、今、元気でいたらと思うぱかり。
 新聞は、毎日、交通事故死を伝える。交通戦争に終わりはないのだろうか。
 最後に、事故当夜から加害者発見まで、日夜努力下され、いらだつ家族に親切な言葉がけ、心の拠り所をいただき、誠にありがとうございました。

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