「あの日から」 真狩村 気田 光子 |
あれからもう20年になります。その間に娘の成人、結婚、父親の障害が原因の息子へのいじめ、本当に色々な事がありました。子供達には、「お父さんの代わりは出来ないが、お母さん精一杯頑張るから協力してね。」 1日1日の過ぎて行くのが早く、アッと言う間の20年だったような気がします。 あの時から・・・昭和54年1月17日午前1時45分、1本の電話が鳴った時から、 私達の生活は聞くこと、見ること、する事全てが、これが現実なのかと思える程、 1日1日が目まぐるしく変化する全く別の生活が始まりました。 夫が交通事故で、それも轢き逃げです。 相手は判って居ません。 逃げた事に対して憎いと思う気持ちは今も変わってはいない。 夫は36歳で植物人間に、はじめて聞く言葉です。 私は30歳、妊娠3か月、娘8歳、 あの時の状況は、20年たった今でもつい昨日のように思い出されます。 忘れようと思っても忘れられないのです。 何度か死を考えましたが、一度だけ、 娘に「お母さん疲れた、一緒に死のう」と言った時、娘は目に一杯涙を溜めて、 「お父さん1人置いていくの? 弟も生まれたのに、死ぬのは嫌だ、 どんなに辛くても、淋しくても我慢するから、協力するから」と、 この言葉がなかったら私達3人は、この時からこの世に存在しなかっただろうと思います。 当時は、中絶を決意し、病院まで行きましたが、「子供の命を亡くすとご主人の命も一緒に逝ってしまうよ」・・、 この言葉の陰には、沢山の人の支えがあり、その息子も来年は成人を迎えます。 夫は、脳の損傷がひどかつたので、重度の障害が残り、家族とは今でも離れて生活をしています。 私が不規則な勤務のある老人ホームで働くようになってからは、娘に負担を掛ける事が多く、 成人の時に「随分、苦労をかけたね」と言うと 「家族だもの、負担だなんて思っていないよ。当たり前の事だよ、自分だけでなく皆が大変だったんだから気にしないで」、 前向きに考えるようにしてはいますが、辛くても、楽しくても、 涙は20年前に捨てたはずなのに、また違う意味で涙が出ます。 この20年、無我夢中でしてきただけ、理不尺な事も数多く経験しました。 またその反面、人の親切も身にしみた20年でもありました。 今の私達が、こうしていられるのも、沢山の人の支え、励ましがあったからといっても過言ではありません。 泣いても1日、笑っても1日、同じ1日なら笑って暮らせる日が多くなるように頑張ろうと子供達と話し合いながら、 今日まで来ました。 私は、老人ホームで寮母をして13年になります。 お年寄りの皆さんと接しながら、自分たちがしてもらった事を、 今度は少しでも役に立てる事が出来ればと思って仕事をさせて頂いています。 今でも、挫けそうになる時もあります。 でも、そういう時は、支えてくれた人達に申し訳ない。 その気持ちは絶対に忘れてはいけないと思っています。 本当に感謝しています。 |
「なぜ、どうして・・・・」 江別市 山田 昌子 |
交通事故は恐ろしいです。 6歳の孫が命を断たれて2年9ヶ月ですが、悲しいばかりです。 家の中に姿が消え、声も無くなった時、遺族も生きる力を失いました。 私は、食べるから生きている、生きているから食べるだけの毎日になってしまいました。 そんな悲しさの中、両親は、事故の状況を知るため所轄署に出向きましたが、 どうせ飛び出しだろうと言われ、状況は知らされませんでした。 ただ、当時現場で係官が母親に、運転手はブレーキとアクセルを踏み間違ったかなと話していました。 その後、事故の状況を知りたくて、当時の運転手に来てほしいと連絡したところ、 運転手から連絡はなく、弁護士からの示談の提示があり、そのまま運転手とは会えなくなりました。 それで、再度、所轄署に出向いた時は、書類は地検に送ったので何も言えないと言われ、 地検で「不起訴」になった事を知りました。 肉親を失った家族にとって交通事故死は、そんな軽いものでしょうか。 その運転手は、8年間に人身事故を含め5回の事故を起こし、 任意保険にも加入出来ない人と聞いており、これが6回目の事故でした。 両親は、運転手の真意を知ることと吾子の名誉の為に、 訴状を作り父親の親元で民事栽判を起こし、5回目の運転手への尋問で、 「右側駐車場の女の子を見ていて、前は全然見ていなかった」事を認めました。 不起訴とは、「処罰の必要が無い」と認識しております。 人命を断って不起訴の当事者は、死者に1本の線香も手向けなくとも心が安らぐでしょうか。 そして、何年か後、また運転が許されるのでは、我が国から交通事故死は増加しても少なくならないと思います。 失った内親を想い、涙にくれる家族を増やさないで下さい。 どうぞ、命の重さを教えてぼしい。これは、遣族の血の叫びです。 ペンを持つ手は震え、涙で書けない20日余りでした。肩のあたりで、 「おばあちゃま、がんばった。おばあちゃま、えらい」と言ってくれてるような温もりを感じながら、 一息ついてペンを置きます。 |
「幸福な一家を崩壊させた交通事故」 美唄市 宿南 さゆり |
私の妹(30歳)は、夫(32歳)と長男(2歳)、年老いた母の4人で幸福な家庭生活を送っていました。 ある日の朝、妹はいつも通り会社に向かう夫を笑顔で見送りました。 その笑顔が、30分後には・・・、妹の夫は対向してきた大型車に正面衝突されて即死、 会社からの連絡で妹が病院に駆けつけた時には、無情にも冷たくなっていた夫、 「お父さん〜、お父さん〜」と呼べど、叫べど返事をしてくれませんでした。 幼い息子を抱え、悲しみを必死に堪えてやっと夫の一周忌を終えこれから頑張ろうとしていた矢先、 息子が高熱で倒れ、岩見沢市立病院から札幌医大病院に転送され、医師の治療を受けましたが、 意識不明の状態は戻らないまま、家族のどんなになっても「生きてさえいてくれれぱ」と言う願いも空しく、 なんの言葉もなく半月あまりで息を引き取ったのです。 病名は、風邪による脳炎でした。 妹は、相次ぐ悲しみと幼い息子を1人で父親の元へ旅立たせる事を不敏に想い、 天国で3人の幸福な家庭を夢見て、その日のうちに、自らの命を絶ってしまったのです。 たぶん、息子が息を引き取ったら自分も後を追う覚悟を決めていたのかもしれません。 夫の事故死からの悲しみに続いてのこの半月間、どんな気持ちで過ごしていたかと思うと胸が詰まる想いです。 親子別々の柩に入れるのも不憫と思い、母の懐にしっかりと子供を抱かせて1つの柩に入れ、 父親の元へ旅立たせてやりました。 今、年老いた母が1人取り残され、すがる子供もなく仏にすがる毎日を送っている事と思います。 運転者の一寸した不注意から幸福な一家を崩壊させるのが、交通事故の悲惨さです。 どんなに泣いても、相手の運転者を憎んでも、幸せは戻って来ません。 車を運転する1人1人の人が、安全運転に心すべきだと思います。 |
「兄の死で崩壊しかけた家族」 札幌市 M・T |
兄が私達家族の前から居なくなり、早いもので5年の月日が流れるように過ぎようとしている。 夏の雨の夜、運転するはずだった兄が何故か飲酒運転の車に同乗してしまい、 兄だけが24年間の人生に幕を閉じてしまった事故の数週間後、初めて、私達の前に現れた運転手は、 ほとんど傷もなく、話の内容などから兄とは他人を通じて知り合ったらしく、 友達と言えるほどの仲ではなかったように思われました。 その後、何度かお参りに来てはくれたものの、裁判までの数か月間、 姿を消してしまったり私達家族には信じられない行為をされました。 飲めない人だったので実際の酒の恐さを知らなかったでしょうし、 ましては、運転していた人の性格まで短期間では判らなかったのでしょう。 相手は、前科もあり、1年4か月の禁固刑となりましたが、償いもされず、その後、 2度と私達の前に現れる事はありませんでした。 飲酒と判っていながら同乗した兄も悪いとは思いつつも、こんな人間に殺されてしまったという思いは、今でも消えません。 事故の時、猛スピードで助手席側から電柱にぶつかり、運転手は車外へ投げ出され、 兄はシートごと運転席へずれていたらしく即死状態の大事故でしたが、 この状況から兄が運転していたと勘違いされ、ニュースなどでも誤報されました。 電柱に当たり左足も骨析していたのに、検視の人も兄を運転手と決めつけてしまったらしいのです。 数か月後、新聞記者が大型車の運転を職業にしたそれも20代半ばの人がどうして事故を起こしたのかと取材に訪れ、 記事は、事故の様子を脚色し、取材を受けた父の架空の言葉まで書かれ、 デタラメな報道に恐ろしさと怒りを感じさせられました。 兄の突然の死により、両親はお互いを責め合うようになり、特に、 車に関してはいろいろ注意をしていた自分は間違えていたのかと、 母は酒に溺れて泣き叫ぶ日が続き、翌年結婚が決まっていた私は少しでも母親孝行ができれぱと退社して母のそばにいましたが、 優しかった兄の代わりまで私ができるはずもなく、崩壊していく家庭の中で悲しみと辛さで陰で泣き、生き地獄の様でした。 3回忌も過ぎ、少しずつ家の中も落ち着いてきた矢先、母はショックもあったのか以前からの病気が悪化し、 入退院を繰り返す日々が続きました。 やがて私に長女が生まれ闘病中の母にも生き続ける元気と微笑みが戻り、 兄の写真に笑って手を合わせる孫の姿を見ては、子供好きだった兄が生きていたらどんなに可愛がっただろうと両親も笑える様になりました。 あの電柱に今でも車の塗装が残ったまま、そこを通る度にあの日の事が脳裏に浮かびます。 今でも夢に出てきます。 あの事故さえ起きなければ、悪い夢だけならどんなによかった事か。 無理な願いが叶うなら兄と元気な母を返してほしい。 二度とこんな悲しい出来事は起きてほしくない。 |