「今も忘れない五年前の夏・・その時息子は・・・」 札幌市 S・S | |
5年前はとても暑く好天が続いた年、その目も晴天でした。 5人家族の平凡な生活は、1台の大型車によって奪われました。 地獄の日々の始まりでした。 高校生になったぱかりの息子は、自転車で登校中、交差点を左析をした大型車に巻き込まれてしまいました。 救急車で近くの救急病院に収容されましたが、手術が必要という事で外科に転院、 しかしその病院でも手術されることなく症状は悪化していくばかりのなか、 やっと総合病院へと転院されましたが、すでに遅く息子は息を引き取ったのです。 現場は、とても見通しの良い交差点です。 車体の長い11トン車は交差点を左析するとき、 中央線をはみ出してしまった為に、対向の車に気をとられ左の確認をしなかったという。 安全であるはずの横断歩道という存在を忘れていたのです。 安全であるはずの横断歩道を渡っていた息子は、巨大な凶器に変わった車によって夢ある命を奪われたのです。 一瞬の出来事が、希望に満ちた息子の全てを奪いました。 予想もしなかった突然の死、何故、こんなことになったのか、 そして、病院の措置が早ければ・・・人の命を奪った加害者の刑がこんなに軽くていいのか・・・・ どうしても納得ができる答えが見つかりません。 ただ、加害者を憎み、医者を憎みました。 それと共に、私自身が母としてやるべき事をやらなかった事への後梅の念で一杯です。 自然、動物を愛し、誰からも信頼され、期待されていた息子の死は、残された私達家族の人生をも変えてしまいました。 3回忌の法要を終えて離婚、私は今、子供達との時を大切に穏やかに暮らして生きたいと思っています。 |
「突然、忘れることの出来ない鈍い音」 札幌市 内山 孝子 |
平成8年、今冬は大雪の年でいつもは雪投げのしない主人が、こまめに雪投げをしていた。 第2の仕事も退職、老後を楽しく生きて行こうと希望を持っていました。 4月9日、町内会有志の人々で退職祝いを催してくれましたが、なぜかお酒の好きな主人がお酒を口にしなかったそうです。 家の反対側で車から降り帰宅しようとした主人を確認したのが最後の元気な姿であった。 常に、注意深く回り道して信号を確認家路に着く人が何故、この夜は中央分離帯を乗り越え道路を渡ったのか? 突然、忘れることの出来ない鈍い音、不思議と「アッ、主人だ」と直感、転げるように外に、 お父さん、お父さんと呼べども応答なし、あまりにも大きな衝撃であった。 あと2、3歩で歩道、そしてわが家に戻ることも出来ずに即死であった。 享年69歳、今だに死んだと認められない胸中、亡夫もまた納得しないまま天国に逝ったように思えてなりません。 「事故の事は多く語る事はいまだに出来ません。」 目まぐるしく変化していく車社会の事故は、不条理として避けられないものなのでしょうか。 亡夫の過失はないとは言わないが、前方不注意で大切な人を奪われた痛みに対して、 詫ぴのない若者、刑事事件の結果、示談いずれも納得できないまま進んでしまう苦痛、 「人の命は地球より重い」と語るが、人が終える時、事務的に処理され、とても残念、無念でありました。 亡夫は、地域住民の生活防衛のために先頭に立って貢献した人でした。 亡くなる前年の平成7年4月、事故多発地点は環境や条件の悪さに大きな原因があるとして、 要望書などを作成して東警察署に赴いていたが、今はただむなしさが残るだけです。 生前の亡夫は、長年に亘って地域発展の中核となっていたので、今だに亡き夫を懐かしんで下さる人からご厚情を頂いています。 これを財産として大切に主人を忍ぴ暮らしています。 北栄元町両地区は今年の事故抑止重点地域に指定されたようです。 一日も早く 「ある日突然」 と言う事故のない安心して暮らせる地域になってほしいものと亡夫も願っている事でしよう。 |
「通行人二人跳ね殺す」 千歳市 小川 静江 |
昭和47年12月3日、道道砂用赤平線で主人は友人とともに乗用車に跳ねられて、 約5メートル土手下に飛ばされた。 車は逃げた。 つぎの朝犯人は逮捕された。 友人は、一晩中助けて〜・・と大腿部に自分で止血しながら叫ぴ続けましたが、 酔っぱらいだろうと思われたのかそのまま一夜が明けた。 友人は凍死、主人は頭蓋骨骨析て即死。 犯人は、滝川市内ではしご酒、酔っぱらい運転中の事故、「許せない。」 私の家には4日の朝知らせがあった。 小学校2年の長女、小学校1年の次女、8か月の長男・・・。 その日から私は、自律神経失調症にかかり、今でも薬を飲む日が続く。 27年は昨日のようでもある。 子供のため、自分のため努力・・・・。 3人の子供達には苦労をかけました。 あれから27年間、私の意地で交通安全運動には、マスコットやチラシなどを配りながら生活をしています。 北海道交通遭難者家族の会にも参加、毎年6月28日滝川で行われる交通事故犠牲者に対する慰霊祈願に昨年は参加してきました。 市でもガンパっておりますが、雨が降ったら運動が中止になるのは何故・・・。 安全の旗を持って立つだけが安全運動なのでしようか。 何十年たっても変化がない。 運動を見直しては・・・。 お願いをしたい。 タチンポーだけでは事故は無くならないのです。 平成の運動は考えなおして下さい。 死亡した人は帰ってきませんが、残った家族も手をつなぎ命を守って行く事を考えてほしい。 長い年月を死と生に別れた私達の苦しみは、一生無くならず析願し続けることでしょう。 |
「深い心の傷跡」 札幌市 山崎 伸子 |
平成10年7月16日の朝8時、高校に通う途中、娘(高校3年)が交通事故に遭った。 救急隊の方から連絡を受け、指定された病院に向かった。 ストレッチヤーの上に寝かされたままの娘は、一見何ともないように見えたが、 やたら左足を痛がり動かせなかった・・・・。 大腿骨骨折で手術が必要で、3ケ月の入院と診断されそのまま入院となった。 セーラー服を着たままベットに横たわる姿に3ケ月という長い入院生活は「大変な事になった」 という気持ちがこみ上げて来た。 大学受験はどうなる? いや、その前に推薦入学の方は? いやいや、その前に3ヶ月も休んだら学校は卒業出来るのか。 内臓の方はなんともないのか? 考えているうちに、病衣に着替えさせてもらい、 すっかり病人になった娘をおいて家に帰り、入院用品などを詰め込み、弟を連れて又病院に向かった。 1日が3日にも感じられた。 東警察署の娘の係の人には、私の方から電話をした。 「お宅の娘さん、車道を走っていたんだってね」 「9・1だね」「裁判になる」など突拍子もない事をペラペラと喋られた。 「車道を走るような娘ではないので、よく娘に聞いてみます」と私は電話口で小さくなった。 どういうことなのか、さっぱりわからん。 なにしろ警察の人は、娘に一度も会っていない。 警察が来たときには、既に救急車に乗って病院だったのだ。・・・不安で手が震えた。 結局は車道など走っていなかった。 どういうことだ。 次の日、保険屋も来た。 娘が悪いところを認めて、保険証を使って治療してくれ・・・・と連日押し掛けて来た。 所長代理という人に途中で変わった。 その人は、「私どもに協力していただけない場合は、四面楚歌にします」 と言った。 ニコニコ笑いながら言った。 50歳代の新聞店員だという加害者は、「大したこと無かったわ」などと嘘ぶいている。 お見舞いも電話もなし。 今でも時々見かけるが、帽子を深くかぶり直し、私に気ずかれない振りをする。 娘は入院中も勉強を続け、101日入院して退院、4月から短大に通っている。 短大のパスで通うだけなのに、左足が腫れる。 ぴっこもひいてくる。 疲れやすい、歩くのも遅い、スポーツなどやれない。 私の大切な大切な娘を・・・・心の震えは納まらない。 再手術が済んでもこんな状態であるなら、加害者や関係者に対して、私は何をするかわからない。 「まさか、警察が・・・」「あの人が・・・そんなこと言ったりする訳ない」 などという“まさか”が実際は、現実は、誠意のないことを言われ、 手術の痛み以上に、深く傷付けられたことは、真実です。 その上、交通事故を起こした加害者に対しての刑事責任は余りにも軽い・・。 事故のショックと同時に、大人の人の心もとない扱いに心まで傷を残した。 |