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「笑顔で外出した父が」   札幌市  新敷 美貴子

 1年間で約1万人もの犠性者がでる交通事故。 まさか、その被害者に自分がなるとは・・・・。

 8年前の交通事故の前夜、同僚の運転する車で釣りに行く父を玄関前から「百匹釣ってきて」 と最後に見送ったことを昨日の事のように鮮明に覚えています。
 翌日になって、なかなか帰宅しないことを心配していた矢先、 突然電話が入り交通事故によって父が病院に収容されたことを知りました。
 すぐに収容先の病院に向かい、医師から話を聞いて倒れ掛かった母を見て、私は、父の死を直感しました。  医師から砕けた頭蓋骨のレントゲン写真を見せられながら死亡の宣告を受けた後、頭部を包帯で巻かれ、 片眼をガーゼで覆っている変わり果てた父に対面した時のショックは、未だに忘れることが出来ません。  父の死を直ぐに理解出来るものでもなく、「笑顔で外出したはずの父が」と思い、 言葉に出来ない感情がただ涙となって出てきました。

 また、人生で何度となく父親を必要とするもので、進学、就職等において、 もし生きていたらどんな言葉をかけてくれるだろうかと思い、その度に声を殺して夜中に1人で泣いていました。
 何故居眠りをした運転手が助かり、父が死ななければならないのかと恨み、 さらにはそんな考え方をする自分がひどく汚れているように思え、自己嫌悪に苦しんだりもしました。  運転手の方にも家族がおり、この事故で大変な苦労をされたのだと思うと複雑な心境です。

 私は、この春から北海道警察の婦人警察官に採用され警察学校で勉強させていただいています。  この私の経験を生かし「小さな気の緩みから大きな悲しみが生まれる」ということを1人でも多くの人に伝え、 悲惨な交通死亡事故の発生を防ぎながら、苦しんでいる被害者の方々の力になれるように、 知識技能の習得に努めていきたいと思っています。

「息子の家庭の交通事故遭遇について」   札幌市  内藤 功

 私共夫婦は、共働きを経て共に定年も過ぎ、私は幸い第2の職場に就職、 長男、長女の2人の子供達はそれぞれ独立生計し孫にも恵まれるなど、平均的な家庭環境でした。

 忘れもしません。 平成10年2月6日の金曜日は、タ方から猛吹雪となっていました。  明けて7日の土曜日の朝、全く予期せぬ電話が息子から入りました。  「妻、志津子が昨夕の7時ころ、廃棄処理の大型トラックに自転車共々巻き込まれ脳死状態で病院に運ばれた」との第一報でした。  取りあえずの状況判断から、孫2人を引き取る為、妻を千棄県まで旅立たせ、現地からの状況報告を待つこととした。

 連絡を待つ間の自分の心理は、毎日のように報道機関その他で報じられている交通事故、 これは自分たちが気を付けてさえいれば別の社会の出来事で、私達が生活している社会とは全くの別社会と認識し生活していたことに気付きました。
 このことは、現実の社会生活の中に確として存在していたが、ただ自分が妄想的錯覚をし、加害者、被害者を問わず、 ある日その社会から足を引っ張られてはじめて目覚めるのだと感じました。  そして、息子、孫たちがこれから妻、母親が居ないがどのように展開していくのか、 そして、私共夫婦の生活にもどの様に係わってくるのか想像もつきませんでした。

 しかし、現実は現実として受けとめ、悪いことばかり考えないで、気持ちを切り替えることも、 これから生活していく上で必要なことと考え、もし人がこの世に生を受けた時点で、人の運命が存在するなら、 嫁には大変気の毒であるが36歳の短い運命を背負って来た人生と諦めること、 息子にも大変申し訳ないが、夫自身の身代わりに嫁がなったこと、毎日保育園へ自転車に子供を乗せて送迎していたにも係わらず、 その日に限って1人であったことなど、運命的としか考えられない事実を自分の気持ちの整理をする材料にしながら、 妻からの報告を待った。
 運命には、逆らえず病院の主治医の説明通り、「頭部脳挫傷」で、嫁の志津子は息を引き取りました。

 特筆すべきは、加害者の運転手、雇い主が、嫁志津子の生があった1週間に1回しか見舞いに来てくれず、 また、電話で様子を問い合わせることもなく過ぎたことが悔やまれてなりません。見舞いの回数云々でなく、 被害者の様子くらいは毎日でも間い合わせるくらいの誠意があってもと考える毎日でした。

 しかし、事故から1年以上も過ぎ、生活環境の急変にも対応した今は、前向きで孫達の成長を楽しみに生活をしている毎日です。


「直樹を失って」   旭川市  近藤 早苗

 今朝、直樹の夢を見ました。 パタパタと走って来て、あの頃と同じように私のお腹の上に乗って来たので 「アッ、直樹だ」と思い、ギュッと抱きしめてとても幸せでした。

 直樹は、平成9年8月29日に6歳と7ケ月で交通事故によって亡くなった私の次男です。  相手は大型ダンプで、直樹は塾に行く途中の自転車でした。
 死因は脳挫傷でした。 身体にはほとんど傷もなく、まるで眠って居るようでした。  でもその眠りは二度と覚める事はなく、あとの数時間は直樹の命が消えて行くのをただ見守る事しかできませんでした。  不思議な数時聞でした。

 直樹を失って、様々な変化が起こりました。 直樹に直接「塾に行く様に進めた」祖母(義母)が自分自身を責めて、 事故のあった土地には辛くて居られないと言って引っ越してしまいました。  ただ1人の弟を失った長男は以前にも増して甘えっ子になり、1人で居るときは「つまらない」を連発します。  事故の前夜、2人で楽しく遊んでいた姿が焼き付いて離れません。  又、私には今だに直樹の行っていた公園に行けませんし、好きだったマーボー豆腐も作れなくなりました。

 以前、よく人は「○○のことは1日も忘れた事がなかった」などと言う言葉を耳にし、 そんな事あるかしら? と思っていましたが、直樹を失ってそれは本当だと判りました。  特に、夜寝るときに思い出しては涙が出て眠れなくなり、不眠症状態になったこともあります。  一生抱えて生きて行くのはもう辛くてイヤだと、私はサッサと死んでしまいたいと何度も思い、 その度に、遺される子供のことを思って頑張り、いつかは直樹に会えるのだからと自分に言い聞かせています。

 交通事故は、悲劇です。 一生続く傷を心に刻み付けています。 今、私は車の中に直樹の写真を乗せて運転をしています。  今日の被害者が明日の加害者にならないように、直樹の顔を見ては安全運転に心掛けています。
 私のお友達もお弟さんを事故で失っています。
 こんな思いをする人々が1人でも減る事を心から願ってなりません。

 私は、今日も寝る時に直樹に話しかけます。 「夢でいいから出て来てネ、お母さんは直樹に会いたいの」と・・・。


「君影草」   音更町 T・H

 札幌冬期オリンピックのあった翌年の昭和48年7月22日、私達に待望のおんなの子が誕生した。  「うちの子が1番美人だな」などと、夫と一緒に嬉しさのあまりに食事をとるのも忘れ、 病院の保育所のガラス越しに、ちいちゃな寝顔をいつまでも見つめていたものだ。  この子の名前は、「佳子」です。

 突然の悲報は、平成3年2月27日であった。  朝、元気に「行って来ます」と言ういつも通りの声を残して。

 午後6時半ころ、音更消防署から「佳子さんが交通事故に遭い、 帯広協会病院のほうに搬送されました」との連絡に、私は受話器を握りしめたままその場座り込んでしまった。  早速、病院に向かい外来の診察が終わった病棟、シーンと静まりかえった廊下に1人立ち、重々しい時間が私を襲う。  やがて病院に来た警察官から、佳子はバス停から自宅に向かう途中、横断歩道で乗用車に跳ねられたことが判った。

 ストレッチャーに乗せられた娘の顔は真っ青、 そして「青で渡っていたのに...」と悔しそうな顔をして佳子は答えた。  事故から容体が急変し、午前11時30分、医師はついに佳子の臨終を告げた。  死因は「脳挫傷」だった。  くしくもひな祭りの3月3日に通夜が行われたが、私は佳子の死が悪夢を見ているように思えて ならなかった。
 黒いリボンがかけられた遺影から、今にも「お母さん」という声が聞こえてくるような気が してならなかった。

 葬儀の後始末を終えた主人が単身の勤務先に戻る時、「もう、頑張る事が出来ない...」 と言いながらも、仕事への義務感、一家の大黒柱としての責任感を背負って、 再び任地に向かう主人の思いは、おそらく複雑なものだったに違いない。
 そして、自宅には私と佳子のお骨が残った。 わずか17歳の命だった。
 遺影を前に梅恨の思いにさいなまれる日々が始まった。

 加害者の自分の方の信号は青だったと思うと言う言葉は、目撃者の証言で一変「赤だったかもしれない」 と自分の過失を全面的に認めた。 加害者への判決は、「懲役1年6ヶ月、執行猶予3年」だった。  なんということだ。 一方的に法を犯して人間ひとりの命を奪いながら執行猶予とは。  これでは、17歳で命を奪われた佳子があまりにも不欄すぎる。  目撃者の方や友人、知人への感謝の反面、報われない沈痛な思いは、生涯消えることはないと、その時感じた。

 事故の防止には、刑事、民事、行政の3つの責任の抑止力が作用し合うことが必要だが、 被害者の立場から見れば、いずれもが不十分である。  警察の捜査状況はもちろん、起訴・不起訴の決定さえしらされない。  公判日程の連絡もない。

 すでに、佳子が突然いなくなって6年近くの月日が流れたのに、私には時間が止まったままの気がしています。  罪もない、希望を持った17歳の娘の命を奪った交通事故、佳子にもそして私達残された家族にとっても、 あまりにも残酷すぎる仕打ちです。 いつも私の耳元には、 「お母さん、お母さん、佳子は17歳でなんか死にたくなかった」という声が聞こえて離れません。

 事故防止を訴える活動は辛く、容易な事ではありませんが、住子のような犠牲者を決して出してはいけない。
 私のような苦しみは誰にもさせてはいけない。