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「地獄の日々 今も」   幕別町  伊藤 尚子

 まだ夏の暑さが残っていた9月5日、この日を境にして私どもの日常が一変し地獄のような日々が今も続いています。
 私の娘は、生後6か月の乳児を抱っこホルダーで前向きに抱き帯広駅近くの横断歩道を青信号で渡り、中央分離帯を2〜3歩進んだ時、右折してきた車に後ろからはねとばされました。娘は頚椎捻挫、左膝ほか全身打撲。孫は路上に叩き落とされ頭蓋骨骨折、頭蓋内出血で、24時間以内に出血が広がれば即手術という状態で、ICUに入り毎日何度も吐き、痙攣止めの薬を服用し続けました。

 加害者は救急車の手配もせず、乗っていた車を脇に寄せる余裕さえみせる始末。周りの人々が119番通報し、散乱した靴やバックを拾い、救急車が来るまで励まして下さいました。
 事故現場での加害者のとった態度には納得できませんが、更にICUの入り口で私に、けがの様子を尋ねることも無く「入院するのですか」と聞き、入院に疑いを持ったのか、その後病院の玄関ロビーで缶ジュースを片手にTVを見ながら見張っていました。
 加害者は20歳台の女性で、入院中は何度か「来てやった」といわんばかりの横柄な態度でICUのインターフォンを鳴らしていましたが、いつのまにか住所、電話番号を変更してしまい、その後連絡すると「保険屋に全て任せたので、私には関係ありません」と、鼻先でせせら笑う有様でした。

 事故後1か月、こちらから電話して拙宅で被害者の娘は初めて加害者に会いましたが、加害者父娘に怒鳴られる始末。数日後保険会社の担当者に連絡がつき転院等の手続きを聞くと「弁護士に聞け」でした。
孫は脳外科で、頭に水が溜まり将来にわたって経過観察が必要と診断され、小児科では発達や発育の遅れがあり、肢体不自由児センターでのリハビリを勧められました。
 10月末、嫁ぎ先の茨城へ帰りましたが、二人ともまだ通院中で、孫はレントゲン、CT等検査の度ごとに睡眠薬を飲まされています。

 交通事故防止に向け様々な取り組みがなされていますが、加害者はわずかの見舞金を出せば、後は全て保険会社、弁護士に任せて、関係ない生活が送れるのでしたら、絶対に事故は減りません。もっと厳罰にすべきです。
 安全の懸け橋である横断歩道上で昼日中に我々国民を守る立場の公務員によって、娘と初孫は傷つけられました。孫は誕生も近いのに歩くこともハイハイも出来ず、医師からは溜まった水のため脳を強打したら即死の可能性もあると言われています。

 「這えば立て、立ったら歩め」の親心を踏みにじった加害者は今日も小学校に勤務しているのでしょうか。


「交通事故で母を亡くして」   旭川市  吉崎 巌

 平成7年11月4日、その時私は東京にいた。夜の8時過ぎタクシーの中で携帯電話が鳴り、出ると妻だった。
 「もしもし、お婆ちゃんが亡くなった」との一言。
私は親戚に高齢のお婆ちゃんが数人いるので、「どこのお婆ちゃん」と確認した。
「うちのお婆ちゃん!」まだピンと来ない。 名前を聞いて初めて自分の母だと判る。
 聞くと交通事故とのこと、一瞬頭の中が白くなった。 さて、どうしたものか? 考えると胃の中がズシーンと重くなった。その晩一睡もできず思い出すのは何故か? 小、中学生時代のことばかり。
 そして、ふと自分が今まで母に何をしてあげただろうか? と考えた。
 ・・・・・何もない・・・・・涙が自然に溢れ出た。

 翌日、朝一番の飛行機で帰宅すると北枕で寝ている母の姿が小さく見えた。
 61歳になる加害者もうなだれてそばにいた。
 1人で心細かったのだろう、弟も1緒だった。
 「どういう状況だったのですか?」と私は開いた。彼は半分泣きながら説明した。
時間は午後5時頃、小雨模様で非常に見通しが悪く、ライトを点灯していても点いているのかどうかよくわからない様な状態だったらしい。
 『いつも通っている道路なのに、全く気がつきませんでした。ただ、いきなりドーンという音がしてその暖間、人だとわかりあわててブレーキを緒みました。降りて抱きかかえましたが、意識はありませんでした。』
 「横断歩道で信号は車に対して赤だったと聞いていますが、どうでした?」
 『全く判りませんでした。 確認していません。 申し訳ありません。』と彼は泣き崩れた。
 そばにいた妹が、「母は2週間後出発のオーストラリア旅行を非常に楽しみにしていました。」と伝えました。
 『すみません。申し訳ありません。』
と泣きながら畳に頭をすりつけて謝罪する彼を見て、私は何も言えませんでした。
”・・・事故だからな一!”と何度も何度も自分に言い聞かせるようにつぶやいたのを覚えています。

 20分程たった頃だと思う。 ただひたすら謝罪する彼を見て「被害者も非常につらいが、加害者も地獄ですね。」といったら、涙ながら『ハイ!』と応えた。
正直な気持ちだったのだと思う。
 私も車を運転する身、加害者には絶対なるものではないと思った。
 今考えてみると以外と冷静だったのかもしれない。
 お通夜の晩に、母のパスポートが旅行会社の人から届けられた。
 パスポートはそのままお棺の中に納めたが、とても辛く、虚しく、せつない思いでした。

 新聞に毎日のように交通事故のことが出ています。
 ただ何となく他人事のように思って見ていましたが、まさか我が家に降りかかってくるとは考えても見ませんでした。
 事故が起きてみて、何故起ったのか考えてみました。
 加害者の前方不注意はもちろんですが、他のすべてのタイミングの一致したときに事故が起きるものだと思った。
 例えば、もし母が1〜2秒歩くのが早いか、遅ければ車は母の前後を通り抜けたと思うし、また、車のスビードがもう1Okm、否5km程早いか、遅ければこの事故は起きなかったと思う。
 このように、「もしも」「例えば」と言ったようなことが何度も何度も浮かんでは消え、浮かんでは消え、その度に深いため息をついた。

 後日、警察から呼び出しがあり、事故の状況を群しく聞かされた。
 私は「今回の事故は交通事故であり、加害者に厳重な処分をしたところで母が生き返る訳でもないし、出来るだけ軽くしてあげて下さい。 母もそのような処分は望んでいないと思います。」と言った。
 警察官は『ではその旨を遺族の意見として文書で検察庁に送るがよろしいですね』と念を押され、私は「はい」と応えた。

 加害者は四十九日、彼岸、お盆、命日、その他と3回忌が済むまで来てくれた。
 私は本人に「裁判の方はどうなりました?」と聞くと、『禁固1年2ヶ月、執行猶予3年』とのことで、私は「執行猶予がついて良かったですね。」と言うと申し訳なさそうに『はい』と言っていた。
 交通事故は被害者にとっても加害者にとってもともに辛く、重荷であり、絶対に起こしてはならないと改めて痛感した。
 特にハンドルを握る時は今まで以上に注意カをもって運転することは勿輪のこと、ただそれに慣れてしまうことが非常に恐ろしい。

(この文章は、平成11年12月6日『「なくせ交通事故」被害者の声』に、掲載されたものです。)



「母の死に一筆申し上げます」   旭川市  菅原 哲男

 母の死亡当時の健康状態は、足腰等含んで良好にて健康そのもので、朝・昼・夜を通して散歩が好きであった模様。
 当日、スーパーに買い物し、午後8時過ぎ帰宅途中、6条通り14、5T目交差点歩道上にて、車両に突き飛ばされて死亡した。

 病院へも通院していないほど健康で、まだまだ、長生きすると思っていたので、急死の訃報にびっくりしてしまいました。
 妹たちは夫が本州へ出稼ぎに出ているため、私1人がこれに対応しなければなりませんでした。
 葬儀の準備、通夜・告別式等何とか1人でとり行ったわけです。
 なお、経済的なことも多少ありましたが、私の両親の遺産相続で裁判を行いやっと今年の3月に解決したばかりでした。
 葬儀後は、加害者からの音信なく、1度でも花の1つも持って参拝の心掛けもないということは、甚だ遺憾なことと思います。

 なお、申し上げるならば
  ・交差点における車の徐行
  ・速度の減速
  ・路上の人、自転車走行等の注意
  ・高齢者・子供に対する注意・確認
  ・前方(進行方向)の確認
特に車を運転する方に注意を願いたい。
 誠に粗雑な意見ですが、一筆申し上げます。

(この文章は、平成11年12月6日『「なくせ交通事故」被害者の声』に、掲載されたものです。)


「母を亡くして」   旭川市  横山 静子

 母が突然いなくなってから2年経った今でも、
 「あれは現実だったのだろうか?」と、信じられない気持ちです。
 ただ、毎日の生活の中に母の姿がないことだけは事実です。
 道路を横断中、軽自動車にはねられ、宙を舞い、ポンネットに叩きつけられた母は、意識を戻すことなく、天国へ行ってしまいました。
 最後のお別れの言葉さえ交わすことができなかったのです。
 家族の見守る中、心臓マッサージを終わらせると同時に、モニターの中の曲線は一直線となり、心拍数0が恐ろしいほど胸に突き刺さりました。
 交通事故は誰にでも起ることとわかっていても、我が家には絶対にあり得ないことと思いこんでいました。 車を運転する者ならともかく、自転車にさえ乗れない母なので、我が家では1番事故にあう確率の低い人と思っていました。
 ドライバー本人は事故当日、病院に駆けつけた私達に対し,顔も見えないほど深く頭を下げていました。
自分の不注意から事故を起こしてしまったことを詫びているようにみえました。

 ところが、後日「母が急に道路に飛び出した」と言ってきたのです。
ゆっくり行動する母がそんなに急ぐわけがないのにと、私達家族にはとても信じられませんでした。
 その後、事故の状況がわかってくるとドライバーの主張していることが間違っていると確信しました。
それは、「物的証拠」や「近くを歩いている人の証言」からでしたが、裁判ではドライバーの言い分が通り、「不起訴」となってしまいました。「死人に口なし」ということです。私達にとって本当に悔しい判決でした。
 すぐ、検察審査会に再審査を申請しましたが却下されました。
母は、勝手に道路に飛び出した不注意な人と判断されたわけです。
悔しい気持ちをどこへもぷつけることもできず、相手とも話しがつかないまま、2年が過ぎました。

 母の仏前に良い結果報告もできずにいる毎日は、つらく悲しいものです。
 母の死後、父は悲惨な状況でした。 まるで体の一部をなくした人のようで、精神的ショックから、何もかもバランスが崩れてしまいました。
 眠れぬ夜が続き、昼と夜が逆になり、一度言ったことは忘れてしまい、自分で行動したことさえ、忘れることが多くなりました。
目に見える傷はすぐに回復するでしよう。 でも目に見えない「心の傷」は2年経った今でも癒えることがありません。
 車を運転するということは、人をいつでも死なせることができるということです。
道路は車だけのものではないはずです。 「歩行中の人の間を走らせてもらっている」というくらいの気持ちで車を運転してもらいたいものです。
 信号が「黄」から「赤」に変わりそうだと、停止するわけでなく、逆にスピードをあげる人がいますが、それぱ自分だけの道を走っていると勘違いしているのではないでしようか?

 道は、歩行者のものでした。 今は車のものになっているように思えます。
 歩く人、自転車に乗る人もいるのです。 車が優先されるわけじゃないはずです。
 私達のように「悔しい思い」をしている人が、全国にどれだけいるでしょう。
 もうこれ以上、増やしてはほしくありません。
 運転する人は、「命に対する責任」を持ってハンドルを握って欲しいと思います。

(この文章は、平成12年12月6日『「なくせ交通事故」被害者の声』に、掲載されたものです。)